クラウゼは威厳のある表情を取り戻し、ヴァルターは姿勢を正した。こんこん、と扉を叩く音。
―アントニオ様がいらっしゃいました
通せ
平坦な声で、ヴァルターが答えた。
扉が開かれ、茶器を携えた侍女と共に、一人の男が執務室に入ってくる。
丸顔で、歳は四十代前半ほどか、ぽっちゃりとした体格の男だった。幾つもの宝石が縫い付けられた煌びやかなローブ、頭頂部には羽根飾りのついた小さな帽子、ひと目で上級貴族と知れる出で立ちをしている。
陛下におかれましては、本日もご機嫌麗しく……
柔和な笑みを浮かべ、仰々しく一礼する男。その名を、『アントニオ』という。クラウゼの主治医にして専属の薬師だ。
具合が悪いからこそ、そちを呼んだわけであるが
はっ、申し訳ございません……
口の端を歪めて笑うクラウゼに、柔和な笑みを引き攣らせるアントニオ。しかし、すぐに気を取り直して、侍女が準備した簡易テーブルの上に薬箱を置き、秤やカップなどを用意する。
……それでは、如何様に致しましょう
いつものように。咳が鬱陶しくてかなわん
仰せのままに
一礼し、アントニオは慣れた手つきで、薬剤を調合し始めた。粉末やシロップなどを手際良く量りとり、持参した水とともにカップの中で混ぜ合わせる。
すぐに、どろりとした濁った緑色の、いかにも不味そうな薬液が完成した。
さて……
新しく匙を手にとって、アントニオは薬液をすくい取り、口に含む。
ふむ……問題はないようです
味見、ではなく、責任を取るための毒見の性格が強い儀式。しかし当然のようにそれをクリアしたアントニオは、侍女が運んできた別の白銀のカップに、改めて薬液を注ぎ直した。
一見、何の変哲もないカップだが、見るものが見れば、その強力な魔術の波動に気付くだろう。毒を検知すれば直ちに知らせる、高価な魔道具だ。
なみなみと薬液が注がれたカップを、侍女がクラウゼの手元まで運ぶ。そこで、駄目押しのように、傍らのヴァルターがパチンと指を鳴らした。
Thorborg.
ふわりと、柔らかな金色の光が、カップの周囲を漂う。その光の中に、一同は、羽根を生やした小人の姿を幻視した。
ヴァルターは、公国の宰相であると同時に、国立魔道院で魔術を修めた優秀な魔術師でもある。毒見の術式もお手の物で、その老練な精査の眼を欺くことは、人の身ではまず不可能と言ってもいい。
カップの周囲をくるりと、舐めるようにして回った光は、そのまま二度三度と明滅してから霧散する。
……問題ありませんな
気負わない様子でヴァルターが断言して初めて、クラウゼは目の前のカップに手を付けた。
とぷん、と揺れる薬液をうんざりとした顔で一瞥し、覚悟を決めたかのように一気に喉に流し込む。
…………
顔をしかめた。凄まじいまでの苦さ、そして後味の悪さ。しかし同時に、胸の奥からつかえが取れるような、そんな爽やかな感覚があった。
……いつものことながら、そちの薬は良く効く。大儀であった
勿体なきお言葉にございます
薬の苦みも余程効いたようで、侍女が新たに白銀のカップへと注いだ、蜂蜜のたっぷりと入った口直しの紅茶を飲みながらも、クラウゼの言葉はどこか投げやりだった。それでも、アントニオは感極まったかのように平伏する。
このところ、手足が異様に冷えることがある。……何とかなるか
はい。それでしたら、薬液の調合に心当たりがございます
では、次はそのように計らえ。今後とも頼りにしておる
ははっ! 身に余る光栄……!!
薬箱を抱えたまま、終始ぺこぺことへつらい、部屋を辞するアントニオ。
その姿を、あからさまに表情に出すことはせず。
しかし、どことなく胡散臭そうに、ヴァルターは見送っていた。
†††
要塞都市ウルヴァーン、領主の城の片隅―。
日当たりの悪い地上階の一画に、その小さな部屋はある。
異様な部屋だ。壁の全面が棚で占有され、そこには所狭しと、瓶に詰められた乾燥植物や、何かの種子、得体の知れない乾物などが並べられていた。床にも足の踏み場がないほどに収納箱が置かれ、部屋に比して大きめの机には、乳鉢やすりこぎ、秤、ビーカー、カップや試験管などがぎっしりと置かれている。
そんな部屋に、ひとりの男はいた。
醜い男だった。顔は、火傷か何かで酷くただれ、片目は瞼が捲くれ上がったかのようになり、その下の瞳は白濁している。もう片方の目は酷く小さく、その顔のパーツのアンバランスさが、見る者に生理的嫌悪感を掻き立てた。やたらと腫れぼったい唇、その隙間から見える乱杭歯、異常なまでの猫背で机に向かう男は、ただ一人黙々と、すりこぎで何か不気味な紫色の骨のようなものを磨り潰している。
…………
ごりごりと、すりこぎの音だけが、部屋に響く。骨のようなものを粉末状にし、別の容器に移し替えて、また新たに磨り潰す。そんな単純な、しかし地味にきつい作業が、延々と続く。
しかし―どれほどの時間が経ったか。
部屋の外から、カツカツと、早いペースで足音が近づいてきた。
作業する手を止めた醜い男は、手慣れた様子で、フードを目深にかぶる。
間もなく訪れる主人に醜い顔を見せ、その機嫌を損ねてしまわぬように―
足音が部屋の前に辿り着くと同時、ノックも何もなく、乱暴に扉が開かれた。
無言のまま、一人の男が部屋に入ってくる。丸顔に、ぽっちゃりとした体躯、やたらと豪奢なローブ―アントニオだ。
調子はどうだ? ん?
執務室にいたときとは打って変わって、気取った調子で声をかけるアントニオ。
は、はー。お蔭さまで、順調にごぜぇます
ん。本日も陛下は、調合した薬に大変ご満足しておられた。誇りに思うといい
ははぁ。ありがとぅごぜぇます
ぎこちない動作で、しかし醜い男は、わざとらしく頭を下げて見せる。機嫌を損ねないように。
さて。それで本題だが、陛下はこの頃、手足の冷えにお悩みのようだ。カンジントア草、リオカの実、レース豆のエキス、この辺りに効能があると思うが、どうだ?
流れるようなアントニオの言葉に、しばし男は、黙考する。
……おっしゃる通りにごぜぇます。完璧でごぜぇます
うん、やはりな。私の見立てに間違いはない
ふふん、と得意げに鼻を鳴らしたアントニオは、至極ご満悦な様子だった。
そういうわけで、うん、そうだな、三日分。今日の夜までに用意しておけ
はっ……はぁ、夜までに、でごぜぇますか
何か?
一から用意するとなると、分量的に、それはなかなかな無茶な要望だった。若干の驚きを滲ませる男に、しかしアントニオは不機嫌な顔で問い返す。慌てて、醜い男は平伏した。
いっいぃえ。確かに、夜までに、三日分でごぜぇますね
そうだ。それでいい
頷いたアントニオは、ふっと、その丸顔に見下すような笑みを浮かべる。
お前のような醜い化け物が、誰のお蔭で食うに困らずいられるか、よくよく考えることだ
は、はぁー
では、……そのように計らえ
何がおかしいのかニヤニヤと笑いながら言い放ったアントニオは、そのまま男を一瞥することもなく、乱暴に扉を閉めてさっさと出て行った。
カツカツカツ、と足音が遠のいていく。その間も、男は、頭を下げたままだった。
やがて、足音が完全に聞こえなくなってから、ぽつりと、
ふん。……自分では何も出来ねぇ、若造風情が……
毒々しさがにじみ出るような声だったが、と同時にそれは、どこか楽しげでもあった。
足を引きずりながら、棚を巡って目当ての材料を集める。葉や木の実の入った瓶を机の上に並べ、先ほどと同じように、すりこぎで擦る作業を再開する。
ごりごり、ごりごりと。
無機質でどこか暴力的な音が、響く。
―どれほどの時間が経ったか。
閉ざされた雨戸の隙間から、夕焼けの光が差し込む頃。こんこん、と扉をノックするような音が響いた。
しかし、それは扉からではなく、閉ざされた窓の方からであった。にやりと、笑みかどうかも分からない、醜い口の端を歪めて、すりこぎを置いた男は、急いで雨戸を開け放った。
そこに居たのは、一羽の鴉。
窓枠にとまった、真っ赤な瞳の鴉だった。
雨戸が開くと同時に、慣れた様子で、鴉は部屋の中へと入ってくる。とんとん、と机の上を跳ねてから、ふわりと床に降り立った。
それをよそに、醜い男は、扉の方へと向かう。慎重に、音を立てないように開き、部屋の外の様子を伺った。
―誰もいない。
そのことを確認し、そっと扉を閉める。
そして、振り返れば―部屋の中に、ひとりの黒衣の老人がいた。
異様な雰囲気の、老翁であった。
まずその背丈。漆黒のローブに包まれたそれは、のっぺりとした存在感を放つ。年老いてなお、ぴんと伸びた背筋は、その壮健さを窺わせた。短く伸ばした黒い髭に、同じように短く刈り上げた黒髪。その顔や黒衣から覗く手は皺だらけで、相当な老齢であることを示していたが、かっ、と見開かれた両の瞳は、荒々しいまでの覇気を秘めていた。血のような、燃え盛る炎のような、深紅の瞳―
―
無言のままに、老翁は軽く右手を振った。
その瞬間、世界から音が消える。
窓から、あるいは天井から、微かに聞こえていた周囲の生活音が、一切合財消え去った。音を封じる魔術を行使したのだろう、と醜い男は無知ながらも、ぼんやりと推測する。
下手に城の中で魔術を使えば、宮廷魔術師たちが直ちに検知する、と。そんな話も聞いたことがあったが、少なくとも目の前の老翁が、規格外の存在であるということだけは、はっきりと理解していた。
……さてさて、久しいのぅ。元気にしておったか?
背の低い男を覗き込むようにして、親しげに老翁は問いかける。
へ、へぇ。お蔭さまで……
暗い笑み。しかし、それは上っ面を塗り固めた媚笑ではなく、真の畏敬の念が滲み出るものだった。
そうかそうか。……陛(・)下(・)の(・)御(・)様(・)子(・)は(・)?
そして、続けざまに問われた言葉に、男は醜い笑みをさらに濃くした。
……この頃は、手足の冷えに悩まされておられるそうで
カッカッカッカ……そうか、そうか
懐から、無色透明な液体の詰まった小瓶を取り出しつつ、老翁は邪悪な笑みを浮かべる。
ならば……先(・)は(・)長(・)く(・)な(・)い(・)な(・)
その小瓶を、醜い男に、手渡した。
へ、へへぇ……
それを受け取りながら、男も引き攣ったような笑みを浮かべる。
カッカッカ、へっへっへ、と。
どろどろとした嘲笑の声が、静かすぎる部屋に響く。
やがてそれは、ばさばさという、一羽の鳥の羽ばたきの音に変わり。
それすらも遠ざかっていったあと、ゴリゴリと、再びすりこぎの音だけが響く。
何事も―
何事も、なかったかのように。
いつまでも。
29. 一夜
とうとう着いたか
ウルヴァーン外縁部、宿場町。サスケの背から降りたケイは、ぽつりと小さく呟いた。
ぶるるっ、と鼻を鳴らすサスケの首を撫でながら、遠景の要塞都市を見やる。風にそよぐ麦畑の果て、小高い丘の上にひしめく石造りの家々に、それらを取り囲む分厚い城壁。
領主の城、第一の城壁、第二の城壁と、段々に構造物が広がっていく様は、まるで街そのものが大きなひとつの岩山のようだ。
遂に、……だな
同じく、スズカから下馬したアイリーンが、そっとケイの隣に寄り添う。
アレクセイとの決闘から、おおよそ半日。
ウルヴァーンの都市圏に辿り着いた一行は、城壁の外側の宿場に逗留し、市内へ入るための準備を進めていた。
―そっちの荷は1番馬車に、割れ物はまとめて2番だ。ちゃんとリストは仕上げておけよ。あっ、毛皮の畳み方にはきちんと気を払うんだぞ、折角状態が良いんだから!
宿場町の一角に居を構える、コーンウェル商会の倉庫前にて。ホランドの指示の下、商人や見習いたちが忙しげに動き回り、積荷を別の馬車へと移し替えていた。
税金対策、であるらしい。隊商の荷馬車のまま市内に乗り入れると、馬鹿にならない租税を取られるので、経費削減の為に専用の馬車を使ってここから市内の支部までピストン輸送するそうだ。
今回も、何事もなく辿り着いたな……
いや、何事もないってこたぁねえだろ。“大熊(グランドゥルス)“出たじゃん
まぁな。でも俺ら何もしてないし……
気が付いたら終わってたもんなぁ
忙しげな商人たちを尻目に、仕事を終えた護衛たちは気楽なものだ。あとは市内で給金を受け取るのみなので、武装を解きながら、のんびりと駄弁っている。
そして、そんな彼らから距離を置き、ケイとアイリーンは二人の世界にいた。