見慣れた自分の部屋ではない。そもそも屋内ですらない。妙に背中が痛いと思ったら、ベッドではなく草原の大地に寝転んでいた。愕然。と同時、すぐ隣で ぶるるっ という鼻を鳴らす音。
弾かれたように横を見れば、灰色の毛の馬が草を食みながらこちらを見ている。
―はっ?!
ぎょっと体を仰け反らせ、転がるようにして立ち上がった。爽やかな風の吹き抜ける草原、しばし見つめ合う。 なんでコイツ驚いてんだ とでも言わんばかりに気だるげな瞳をした馬は、ぶるると鼻を鳴らしてから再び草を咀嚼し始めた。
呆然としつつも、ふと自分の体を見下ろす。足元に転がる木製の杖。ぱたぱたと風にはためく灰色のローブ。
この体は……
ぺたぺたと肉体を触り、感触を確かめる。この杖、この服装、そして灰色の馬。正直なところ見覚えがありすぎた。
顎に手をやると、―そこに、髭はない。
……どうなってんだ
立ち尽くす、灰色のローブを身にまとった男―コウは呆然と呟いた。
……ログアウトできてない? いや、それにしてもこれは……
感覚がいつになく鮮烈だ。それに先ほどから思考操作を試みているが、メニュー画面が出てこない。第一これがゲーム内であるならば、なぜ『コウ』の蓄えていた立派な髭が消えているのか。周囲を見回せば緑の丘陵地帯、振り返れば大きな岩山に深い森、その果てに連綿と続く山脈―
ぅ……ん……
不意に、自分以外の声が聞こえてぎょっとする。
周囲の景色に気を取られて気付かなかったが、よくよく見れば背後の地面に、力なく倒れている人影があった。その傍には黒毛の馬とまだら模様の馬が、もっしゃもっしゃと草を食んでいる。
んん……
かすかに声を上げているのは、仰向けに倒れている若い女だ。浅黒い肌、ばさりと広がる黒髪、そして横になっていても分かる長身とスタイルのよさ。
そしてその女には一つ、特異な点があった。
頭頂部。黒い髪からぴょっこりと飛び出る、耳。
Nekomimi……!?
驚愕の表情でそれを凝視するコウは、思わずごくりと生唾を飲み込んだ。
くてっ、と力なく伏せられている、人間としては有り得ない獣の器官。それを形容する言葉をコウは他に知らない。ジャパンのHENTAI文化について深い教養と理解を持つコウにとって、グラマラスな若い女にネコミミという組み合わせは少々刺激的すぎた。
また、女の姿もいけない。胸部と局部を守る革鎧の他は、腰と上腕部に黒い布を巻いているのみで、限りなく裸に近い格好だ。さらに胸当てを押し上げる豊満なバストが、革鎧の隙間からわずかに覗いて見える様は、なんとも悩ましく扇情的であった。眉根を寄せて時折ぴくりと目元が震えているあたり、意識が覚醒しかけているのか。
そしてその女の下には、潰されたトカゲのような体勢で、まさに”トカゲ男”としか呼びようのない生物がうつ伏せに倒れていた。皮膚を覆うまだら模様の鱗、指先には鋭い爪。うつ伏せになっているのに加え、ボサボサの白っぽい金髪が長く伸びているため顔は見えない。上に乗っかっている女より小柄だが、全身の筋肉が凄まじく発達しているのが見て取れる。
トカゲ男もまた、上に乗っかっている女同様に露出の多い格好だ。くたびれた革鎧に申し訳程度のボロ布。腰のベルトには棍棒が差してあり、傍には錆付いた戦棍(メイス)が転がっていた。
うっ……なんか嫌な予感がする、二人とも見覚えがありすぎる……!
ぺし、と額を叩いて頭を抱え、コウはひとり呟く。自身がゲーム内の『コウ』の格好をしていることも考え合わせると、この黒髪の女も下敷きになっているトカゲ男も、『コウ』の知り合いである可能性が限りなく高かった。
ぅ~ん……
と、頭を抱えるコウをよそに、猫耳の黒髪女がうっすらと目を開けた。
ん~……?
もにゃもにゃ、と口を動かしながら、寝ぼけ眼で上半身を起こす女。ぴこぴこ、と頭頂部の耳が動く。起き上がってみると明らかだが、本来人間の耳があるべき場所には髪の毛が生えているようだ。
半開きの深い緑色の瞳が、コウを捉える。
しばし、地面に胡坐をかく女と腰の引けているコウとで見つめ合ったが、やがてくわっと目を見開いた女は、
だ、誰よアンタ
あっごっゴメン
女がぎょっと身を引くと同時、きわどいところが見えそうになり反射的に謝るコウ。耳をピンと立て、警戒心も露に立ち上がろうとしたところで、女は下敷きにしていたトカゲ男の存在に気付き動きを止める。
えっ、何? ……何よコレッ!? なに!?
泡を食って、猫科の動物のような身のこなしで飛び退る女。その拍子に女の足が頭を直撃し、 んごッ と声を上げるトカゲ男。
えっ、ってかココは? アタシ何処にいんの?
周囲をキョロキョロと見やり混乱に陥る女の傍ら、トカゲ男は んんー と呻きつつボリボリと背中を爪で掻いており、それでも目を覚まさずにいる。
あー、ちょっといいかい?
ハぁ!? 何よ!
……イリス、だよね?
コウが問いかけると、ハッとした顔で黙り込む黒髪の女―イリス。
その格好……、アンタ、コウ?
うん、まあ。そうだよ
訝しげに目を細め、しげしげとコウを観察するイリス。
灰色のローブ、足元に転がる木製の杖。ゲーム内で言うところの『コウ』の特徴はそれだけだ。背格好はほぼ同じだがトレードマークの髭は生えておらず、アジア系特有の童顔をしている。年の頃は―イリスから見て20代後半といったところだが、アジア系であることを鑑みると30代なのかもしれない。
……ホントにコウ?
うん。髭がなくなってるから、分かんないかも知れないけど
いや、髭っていうか、まず顔つきからして違うじゃない。喋り方も普段みたいに片言じゃないし……
イリスの指摘に、今度はコウが意表を突かれたように自分の顔に触れた。
……顔が変わってる? どんな顔?
どんなって……童顔で、垂れ目で、くたびれたシステムエンジニアって感じ
うっ、またピンポイントな……
ぐさりとイリスの言葉が胸に刺さり、ダメージを受けた様子のコウ。しかしすぐに何かに気付き、腰の辺りをごそごそと探る。
取り出したのは短剣だった。
……何するの?
鏡の代わりにしてみようと思ってね
きらりと光る刃に、顔を映そうと試みる。思ったより刃がピカピカではなかったので鏡としては使い辛かったが、自分の顔がゲーム内のそれとは似ても似つかぬ状態にあることだけはよく分かった。
うん、どうやらリアルの顔のようだね、これは
ちょっと待って、ってことは、もしかしてアタシも……
ぺたぺたと自分の顔に触れるイリス、しかしそのまま身体にまで視線を落とし、動きを止める。
……えっ、ヤダ、この格好……
ようやく自身が半裸に近い状態であることに気付いたのか、イリスの頬がかぁっと紅潮した。胸当てと腰布を押さえ、今更のようにもじもじとし始める。よくよく見ればその背後では、真っ黒な毛に覆われた尻尾がくねくねと動いていた。
なんと尻尾まで、と衝撃を受けるコウであったが、レディーに不躾な視線を向けるのもどうかと思い直し、すぐに目を逸らす。
その、これを使うといい。ボロだけど
自分の灰色のローブを脱いで差し出した。コウはローブの下にシャツとズボンは着ているので、問題ない。
ありがと……
どういたしまして。しかし妙だな……なんでリアルの顔が……
微妙に気まずくなってしまった空気を誤魔化すように、延々と続くなだらかな丘陵を眺めながら、独り言のようにコウは呟く。
実はこの時点で薄々と、アニメや漫画で見かけた”よくある設定”が頭をもたげていたのだが、それを口に出すのは憚られた。
ふぅ、びっくりしたわ。なんか身体だけ人間に戻ってるし……
ローブを羽織って人心地ついた様子で、ばさりと髪を掻き上げるイリス。しかし、その拍子に手が頭頂部の耳に触れて、再びピタリと動きが止まる。
え。何コレ。……え?
ぐにぐにと猫耳を揉んだり引っ張ったり、耳の穴に指を突っ込んで おぅっ と変な声を上げたりと忙しげなイリスであったが、がばっと身体ごとコウに向き直り、
ねえ! 正直に答えて欲しいんだけど! アタシ頭に何か生えてない!?
何か、というか、耳が生えてるね
や、やっぱり?
あとさっき見たら尻尾も生えてるっぽかったけど……
えっ!?
コウの指摘に、ローブの下、中腰になって臀部をごそごそと探るイリス。ぐい、と何かを引っ張ると同時、 ギャッ と乙女らしからぬ悲鳴を上げる。
は、生えてる!
“豹人(パンサニア)“にそっくりだね
うう……ゲームで慣れてたからあんまり違和感なかったけど、音の聞こえ方が何か変だと思ったのよ……
そうか……
がっくりと膝を突いてうなだれるイリスをよそに、曖昧に頷くコウは、
(ならばアレはNekomimiではなくHyo-mimiと呼称するべきか……)
などと、若干現実逃避じみたことを考えていた。
んがッ
―と。
ずっと倒れたままであったトカゲ男が、声を上げてびくりと痙攣した。そのまま地面に手を突き、ゆっくりと身体を起こす。
その顔が露になった瞬間、コウも、イリスも、はっと息を呑んだ。
体つきからして明らかだったが、顔の造りもまた、“トカゲ男”と呼称するに相応しい不気味なものであったからだ。
顔は身体と同様に鱗に覆われ、口の中の歯はギザギザに鋭く、蛇のような長い舌が口から飛び出て薄い唇をちろりと舐めた。顔の骨格も人間のそれから逸脱しており、尖った形の鼻の先、鼻腔は小さな穴になっている。
細い瞳孔を備えた金色の瞳が、ぎょろりと二人を見据えた。
―
それは、一瞬の間隙。
トカゲ男は地面に胡坐をかいた体勢から即座に後方へと飛び上がり、四足で着地。五メートル以上の大跳躍で、瞬く間に二人から距離を取った。
―なんだ、テメェら
特徴的なだみ声。中腰の構えで油断なく二人を睨み付けながら、ベルトに差していた棍棒を引き抜いた。その際、自分がメイスを置き去りにしてしまったことに気付いたらしく、小さく舌打ちする。
……やれやれ。目を覚ましたかと思えば、いきなり喧嘩腰とは恐れ入る
ぺし、と額を叩いて、コウは呆れ顔だ。一方でイリスはおっかない殺気にビビっているのか、腰が引けており両耳が伏せられていた。
……あァ? 誰だよテメーは
そう言う君はバーナードかな。というか、そうだと言って欲しい。信じられないかもしれないが、僕はコウだ。こっちはイリス
イリスを示しながらのコウの言葉に、 あァん? と訝しげな様子のまま、クルクルと棍棒を回すトカゲ男―バーナード。
コウだと……? 髭はどうした。そっちの女の着てるローブはコウのヤツにそっくりだが……。っつーか、そっちの女がイリスだァ? アイツは”豹人(パンサニア)“だぞ
僕たちも混乱しているんだ。ここが何処か分からない上に、外見がリアルに近くなっているらしい
疑う気配は残しつつも、バーナードも警戒態勢を緩め周囲を見回す。
……チッ、見覚えのねェ地形だなァ。っつかテメェ、『外見がリアルに近くなる』ってんなら、なんで俺は”竜人(ドラゴニア)“のままなんだよ
自身の身体に目を落とし、手を握ったり開いたりしながら、バーナードがぎろりと物騒な目を向ける。そんなことを聞かれても困る、とコウは小さく肩をすくめた。
それは分からない。というか、君はバーナードでいいんだよね?
いかにも、俺ァバーナードだが
君もゲームそのままの格好じゃないぞ。顔の形が、その……ちょっと人間っぽくなってるし、髪が生えてる
んだとォ?
ボサボサの金髪に手を伸ばし、バーナードは意外そうに目を瞬いた。
……生えてんなァ。クソッ、どうなってやがる? さっきからメニュー画面が出てこねェし、現在位置もわかんねェ。ってかここはまだゲームの中なのか?
それを考えようとしているところだよ、僕らもね
はァん。そうだ、もしテメェが『コウ』なら魔術はどうなんだよ
……なるほど、その発想はなかった
ぱちんと指を鳴らし、コウは中に塩の詰めてある腰のポーチに手を伸ばす。
Aubine.
一掴みの塩をばら撒くと同時。
変化は劇的であった。
ぱきんっと乾いた音とともに、足元の草原の大地が放射線状に凍結する。一瞬遅れて冷気の波動。凍える風が頬を撫でる。
うっ……
体の芯から、何か大事なものがごっそりと抜き取られる異様な感覚。思わずその場で膝を突くコウに ちょっとだいじょうぶ……? とイリスが心配げに駆け寄ろうとしたが、すぐに足を止める。コウの背後に得体の知れない半透明の存在を幻視したからだ。