鳥たちのさえずりも、何も聞こえない。
全てが息を潜めている。
まるで、何か、とてつもなく巨大な脅威を。
やり過ごそうとしているかのように―
メェ~~~!
メ~~~~ェ!
メェ~~~~!
繋がれた山羊たちが、狂ったように騒ぎ出した。首に巻かれたロープを引き千切る勢いで、必死に逃げ出そうとしている。つんざくような悲惨な鳴き声に、止まっていた時が再び動き出す。
退避!
ケイが短く叫ぶと、固まっていた村人や人足たちが、一目散に逃げ出した。
合言葉!
! オービーヌ !
オービーヌ ッ!
マンデルとロドルフォが叫び返す。
ホアキン、お前も戻れ!
ケイに命じられ、ホアキンが弾かれたように走り出す。チラチラと背後を振り返りながら。こんなときまで、“森大蜥蜴”の登場を見逃すまいとするかのように。
だが、もはや吟遊詩人に居場所はない。
舞台に立つ役者は―
ケイたちだ。
ズンッ、と森の奥で何かが動いた。
木々が、茂みが、ざわめく。
―ぬるり、と。
木々の隙間を縫うように、青緑の巨体が姿を現した。
でけえ……
呆れたようなゴーダンの呟き。
グルルル……と遠雷のような音が響く。
それは地を這う竜の唸り声だった。
チロチロ、と細長い舌を出し入れしながら、“森大蜥蜴”が睨めつける。
いや、ただ餌の場所を確認しただけだ。
とりあえず手近なお(・)や(・)つ(・)にかじりつく。
メェ~~~~!
最期まで悲惨に、そして呆気なく。
パキッ、ポキッと捕食されていく。
ケイはその隙に、サスケに飛び乗った。
“竜鱗通し”を構える。“氷の矢”を引き抜く。
来るぞッ! 予定通りありったけ矢をブチ込め!
そして弦を引き絞り―
ズズンッ、と再び森が揺れた。
―は?
誰かの、呆気に取られたような声。
眼前の”森大蜥蜴”の背後に―揺らめく影。
ぬるり、と。
木々の隙間を縫うようにして、《《もうひとつ》》巨体が這い出してきた。
隣り合った二頭の竜は、お互いの頭を擦り付けるようにして。
ゴロゴロゴロ……と遠雷のような唸り声。
―愛情表現の一種。
ケイの知識が、場違いなまでに冷静に、それが何かを告げてくる。
つがい……?
冗談だろ……というアイリーンのつぶやきが、やけに大きく響いた。
そして存分に、仲睦まじさを見せつけた二頭の竜は。
グルルル……
だらだらと口の端から涎を垂れ流し。
―ルルロロロロォァァァ―!!
ケイたちに狙いを定め、咆哮する。
―ここに、伝説の狩りが幕を開けた。
96. 死線
―無理だ。
地響きを立てて迫る二頭の巨竜に、ゴーダンはすくみ上がった。
常人が心折れるには、充分すぎる光景だった。
グルロロロロォォ―ォ!!
雷鳴のごとき咆哮に打ちのめされ、身体が強張って動かない。
はるか格上の捕食者を前に本能が告げる。
―なりふり構わず逃げ出せ、と。
う、ぁ……
息が詰まる。腰が引ける。後ずさる。
Aubine !
だがそこで、凛とした声が響いた。
思わず振り返る。
ケイだ。
馬上で朱(あか)い複合弓を構え、ぎりぎりと弦を引き絞っている。“氷の矢”に込められた精霊の力が目覚め、青い光が溢れ出していた。
―解き放つ。
カァン! と唐竹を割るような快音。かつて武闘大会で、ゴーダンを魅了したあの音が高らかに響き渡った。
青き燐光を散らす、一条の流星と化した魔法の矢―それは吸い込まれるように”森大蜥蜴”の鼻先へと突き立った。
グルロロロロォ―ッ!?
予期せぬ痛みにたじろぐ”森大蜥蜴”。矢を中心に、青緑の皮膚にパキパキと霜が降りていく。凍傷の激痛もさることながら、冷気がピット器官を麻痺させる。これで熱探知の能力も使い物にならない。
Aubine !
すかさず二の矢をつがえるケイ。狙うはもう一頭の”森大蜥蜴”。最初の個体より小柄だ、おそらくこちらが雌か。
快音再び。
青き流星が空を穿つ。
雌竜の前脚に氷の矢が突き立ち、凍傷で動きを鈍らせた。
効くぞ! 魔法の矢は!
ケイが叫ぶ。
たったの二射で巨大な怪物の突進を止めた、稀代の英雄が。
臆するな! 確かに手間は増えたが―
少し強張った顔で、それでもニヤリと笑ってみせる。
―その分、名誉も報酬も二倍だ! 狩るぞッ!!
つがえる魔法の矢。
Aubine ッ!
まるで流星群のように、青く煌めく矢の雨が降り注ぐ。
グルロロロロロロォ―ッ!!
顔が、脚が、穿たれ凍てつく痛みに、“森大蜥蜴”たちがじりじりと後退る。
……行けるぞ!
うおおおおッ!
マンデルとロドルフォも”氷の矢”をつがえ、 オービーヌ! と合言葉(キーワード)を叫び、次々に放った。
青い光を灯した矢が”森大蜥蜴”の横腹に突き刺さり、凍りつかせていく。
さらにキリアンもクロスボウを構え、毒の矢弾(ボルト)を打ち込んでいた。
(そうか……俺も……)
ゴーダンは、気づく。
己もまた、英雄譚の一員であることに。
(このまま……何もせずに……)
―終われるものか。
背中に担いだ槍を引き抜く。
震える手で投槍器(アトラトル)を構える。
おお―
臆するな。
おおおおッ!!
狙え、そして穿て。
おおおおおおお―ッッ!
雄叫びを上げたゴーダンは、投槍器(アトラトル)を握る手に力を込める。
踏み込む。
全身をバネにして、持てる力を注ぎ込む。
ぶぉん、と投槍器(アトラトル)が唸りを上げた。
美しい放物線を描いた投槍は、無防備な”森大蜥蜴”の横腹に食らいつく。
そしてキリアン特製の毒をたっぷりと塗り込んだ穂先は、青緑の皮膚に深々と突き刺さるのだった。
†††
グルロロロロロロォ―ッ!?
横腹に槍がぶっ刺さり、絶叫する”森大蜥蜴”。大柄な体格から、おそらくこちらが雄の個体だろう。
いいぞ、ゴーダン!
横合いから痛撃をお見舞いしたゴーダンに、ケイは快哉を叫ぶ。
“氷の矢”の大盤振る舞いで”森大蜥蜴”たちがたじろぎ、突進を止められたのは幸いだった。お陰で戦線が―そう呼べるかは、人数が少なすぎて疑問だが―かろうじて維持されている。ここでゴーダンたちに逃げられたら、勝ち目がさらに薄くなるところだった。
(―しかし、まずいな)
その実、状況は芳しくなかった。
『矢継ぎ早』とはまさにこのこと。“森大蜥蜴”の目を狙って次々に矢を放ちながらも、ケイは冷めた思考で戦局を俯瞰している。
まず、想定よりも多く”氷の矢”を浪(・)費(・)してしまった。ケイは正面から、“森大蜥蜴”の顔面や脚部に命中させたが、あれは本来、アイリーンが注意を引いている間に横合いから胴体に打ち込むべきものだった。
そうすることでより効率的に体温を下げ、機動力を奪う狙いがあったのだ。
翻って顔面は効果が薄い。“森大蜥蜴”の頭蓋骨は分厚く、皮膚の下にもウロコ状の『骨状組織の鎧』があるため非常に堅牢で、ほとんどダメージが通らないのだ。それこそ目や、額に一箇所だけ存在する光感細胞が密集した部分―通称『第三の目』―を狙わない限りは。
そして今こそ、未知の痛みで”森大蜥蜴”たちも怯んでくれているが、まもなくそれは狂気的な怒りで塗り潰され、多少の痛みは歯牙にかけなくなるだろう。ゲーム時代から身にしみている”森大蜥蜴”の習性、一度(ひとたび)怒りに火が付けば、文字通り死ぬまで止まらない。
そう、ケイたちは”森大蜥蜴”を『圧(お)して』いるように見えるが、実際は、ただ”森大蜥蜴”が こんな痛み知らない! とビビっているだけなのだ。生命に関わるような打撃は与えられていない。それこそゴーダンが腹にぶっ刺した槍くらいのものか。
あの大型トラックのような巨体が『暴走』すれば―いったい、何人が犠牲になることか。
ちら、と果敢に攻撃を続けるゴーダンたちを見やる。
マンデルとロドルフォは”氷の矢”を使い果たし、今は普通の矢で顔に集中砲火を浴びせている。キリアンはクロスボウでの狙撃。同じく目を狙っているようだ。だが、上下左右に動き回る頭部で、さらに小さな目を射抜くのは容易ではなく、よしんば目の付近に命中しても、強靭な皮膚と頭蓋骨で弾かれる矢がほとんどだった。
ゴーダンはキリアンから毒壺の一つを借り受け、追加で穂先に塗布しているようだ。毒でてらてらと輝く槍を構え、慎重に投げるタイミングを見計らっている。矢と違って槍は残りの本数が少ない。
皆、必死だ。
犠牲は、抑えなければ。
―そのために最善を尽くす。
アイリーン!
矢を放ちながら、ケイはその名を呼んだ。
―小さい方の気を引いてくれ! デカいのは俺が引き受ける!
オーライ! 任せろ!
威勢よく答え、アイリーンが地を蹴った。
右手にサーベルを。左手に鞘を。それぞれ握って風のように駆ける。
オラッ、こっちだクソトカゲ!
そして、左手の鞘には大きなスカーフがくくりつけられていた。雌竜の前で派手に飛び跳ねながら、鞘を振り回すアイリーン。その姿はさながら闘牛士、ひらひらとたなびくスカーフが、否が応でも注意を引きつける。
ほれほれ! どうしたどうした!
それだけでは飽き足らず、無謀にも眼前で立ち止まりさらに挑発するアイリーン。右手のサーベルを日差しにかざし、太陽光を反射させる。
目の辺りにチカチカと、眩い光―
グロロロ……と喉を鳴らした雌竜が突如、グワッと大口を開けて喰らいついた。
なっ……
思わず、マンデルたちの攻撃の手も止まる。これまでのゆったりとした動きからは想像もつかないほど、俊敏な、目にも留まらぬ一撃。
よっ、と
しかし、アイリーンはそれを上回る機敏さで回避。どころか、ビシュッ、と右手のサーベルを閃かせ、チロチロと空気の匂いを嗅ぐ舌先を斬り飛ばした。
どちゃっ、と地に落ちたピンク色の舌が、蛇のようにのたうち回る。
グルロロォォォ―ッ!!
鋭い痛みに仰け反る雌竜。その目に、明らかに、狂気の光が宿った。頭から尻尾の先にまで、力がみなぎる。巨体が何倍にも膨れ上がるかのような錯覚。
―ロロロロガアアァァァァァッッ!!
咆哮。絶叫。空気がびりびりと震える。
そして猛進。土を蹴散らしながら、狂える竜がアイリーンに肉薄する。
―ッ!
ここに来て余裕はなく、アイリーンが全力で走り出す。追いつかれれば轢殺必至、命がけの鬼ごっこが始まった。
グロロ……
暴走し始めた雌竜につられ、雄竜もまた頭を巡らせる。
が、その右目の真下に、ズビシッと矢が突き立った。
おおっと、お前の相手は俺だ!
ケイは手綱を引く。サスケが後ろ足で立ち、いななきを上げた。
お互いカップル同士、仲良くやろうじゃないか! なあ!
デカいとはいえ所詮トカゲの脳みそ、ケイの言葉など理解できないだろう。
ただし―それが挑発であることだけは、伝わったに違いない。
グルロロロロ……
ケイを、そしてサスケを睨み、口の端から涎を垂れ流して、雄竜が唸る。すかさず目を狙ってケイが矢を放つも、即座に首を傾けた雄竜は側頭部で弾(・)い(・)た(・)。
ああ―こいつも確かに 深部(アビス) の怪物だ、と。
思わず舌打ちするケイ。ただでさえ上下左右に動いて狙いづらいのに、回避までされては―
―ロロログァアアアァァァァッッ!
そしてこちらもとうとう、怒りに火がついた。全身の筋肉を隆起させた雄竜が、狂ったように吼えたけりながら、猛烈な勢いで突進してくる。
サスケ!
ケイの叫びに応え、サスケが駆け始めた。振り向きざまに矢を放つ。ほとんど牽制にしかならないが、今は注意を引きつけることが重要だ。
雄竜のはるか後方では、アイリーンが円を描くようにして立ち回りながら、雌竜の攻撃を躱し続けているのが見える。噛みつきだけでなく、尻尾の薙ぎ払いや爪の一撃まで、当たれば即死の攻撃を紙一重で避けている。
ケイは、ぎゅっと胸の奥が締め付けられるような感覚を覚えた。
だが―今―この状況で―こんな感情をどうしろというのだ。
せめて援護を。ケイは、残数が心許なくなってきた”氷の矢”を、ためらいなく引き抜く。
揺れる馬上、それでも風を読み、慎重に狙いをつけ、
Aubine !
一条の青き閃光が、雄竜を飛び越えて空を切り裂いた。アイリーンを追う雌竜の横腹、前脚の付け根部分に見事着弾する。
アイリーンがちらりとこちらを見た。 ナイス とその口が動く。痛みからではなく、筋肉の収縮が阻害され、動きの鈍った雌竜を前に小休止。アイリーンはぜえぜえと肩で息をしていた。化け物を相手に鬼ごっこ。彼女の体力も無限ではない。
―一刻も早く、こちらを仕留める。
そらそら、どうしたァ!
続けざまに雄竜の顔面に矢の雨を見舞う。ぶおんぶおんと頭を振る雄竜、頭蓋骨と皮膚に阻まれ弾かれる矢。